昔ながらのまちのパン屋
世田谷で101年。ニコラス精養堂の話
かんかんかんかん。
窓の外では1日中、踏切が鳴っている。
松蔭神社前の駅前。
商店街と世田谷線が交差する角に、何十年も前からある。
童謡「大きな古時計」に出てくるおじいさんの時計みたいに、ずっとずっとこの街を見続けてきた。
お店に来る人は老若男女。
おじいちゃんやおばあちゃん、赤ちゃん連れのお母さん、仕事中にお腹を満たすパンを買いにきたサラリーマン、外国人、障がい者の方。
なにしろこの店に来れば、どんな人の食べたいものもきっとある。
窓際にはなつかしいシベリア、その隣のガラスの戸棚には、タマゴサンドやらミックスサンドやら食パンサンドに、バンズを使ったハンバーガー。
さらに横のショーケースには、パン屋さんなのにケーキが並んで、その奥の窓辺には、おなじみのあんぱんやコッペパンやカレーパン。
電車がすぐ脇を通る窓辺で、お腹を空かした人を待ち受けている。
ずっとずっと。
毎日毎日。
明治45年(1912年)創業し112年。
東京の菓子屋で丁稚奉公をしていた初代・太田睦賢(ぼっけん)さんが、牛乳販売店として青山で開店。
101年前の大正12年(1923年)、関東大震災で大きな被害を受け、現在の場所に移転、「これからはパンの時代だ」とパン屋に模様替えする。
やがて店の前には世田谷線が通り、賑やかな駅前商店街に変貌。
近くにあった陸軍駐屯地の御用達となり、繁栄を築く。
不運に思えたことが幸運につながることをたとえていう「人間万事塞翁が馬」を地で行く話ではないか。
初代が遺し、2代目の太田米藏さんが厳に守った言葉がある。
「よいことはできるだけつづけるべきだ」
良質な材料で、丁寧に作り、しかも安い値段で提供する。
そうすればたくさんの人によろこんでもらえる。
雨の日も風の日も、「よいこと」が積み重なって、世田谷で101年。
いま3代目の太田泰照さんにもその精神は引き継がれている。
消費者にとってありがたいことに、とにかく安い。
1個わずか百数十円。
誰でも財布に気兼ねなく買えるから、あんなにいろいろな人が訪れるのだろう。
たまの贅沢ではなく、毎日だって。
勢い、来店回数は多くなり、常連さんが多数。
太田泰照さんは話す。
「顔見知りの方は多いです。
顔が見えちゃうと、値上げするのが大変なんですよね。
目先の儲けより、週に3日、4日来ていただければよいという考えでやっています」
円安による原材料の高騰。
多くのパン屋が値上げを余儀なくされ、パンの値段はどこでも上がっている。
でも、なるべく値上げせず、日常で買える価格を守り抜く。
「パンは誰でも食べられるものじゃなきゃいけない。
同じ食べ物で買える人と買えない人に差がつくって、そんな悲しいことはない。
うちの店にいらっしゃるお客様のような方々が世の中を支えてるわけじゃないですか。
支えてる人を支えたい。
値上げしたいのは山々です。
でもなるべく我慢。
我慢しているうちに円高になり、材料の値段も下がってくる」
先に引いた「人間万事塞翁が馬」とは、泰照さんの座右の銘である。
「なにがあっても受け取り方次第。
悪いことも、いいことに変えられる」
辛いことも耐え忍べば回り回っていいことがある。
誰かのためにつづけることが、精養堂を112年も支えてきた原理なのだ。
コロナのときは特につらかったという。
明日がどうなるか見えない。
感染を恐れたスタッフが辞め、入店制限など対策に追われた。
その頃、経営していた大学の学食が閉鎖になり、苦肉の策で思いついたのが、学食メニューをお弁当にすること。
わずか400円で利益はなくとも、コロナ禍が収束したいまもお客様のためにつづけている。
11時の販売開始に毎日長い行列ができるのは、今や松陰神社前の恒例。
必要とされる仕事をしているという実感は、泰照さんの生きがいであり、精養堂の進路を決める羅針盤になっているのだ。
子供たちもこの店を必要としている。
給食パンを届ける幼稚園や保育園は常時30以上。
近隣の幼稚園のため数個のパンを作ることにはじまって、評判が評判を呼び、世田谷中に広がった。
人気の秘密はキャラクターのパン。
店頭でも売られるアンパンマンにはじまり、チューリップ、魚、お星様、黒猫など動物の形のパン、歳時に合わせハロウィン(オバケ、カボチャ)やクリスマス(サンタさん、ツリー)、子供の日はこいのぼり、冬は雪だるま…これだけ挙げてもほんの一部。
「ぐりとぐら」さえパンで作ってしまう。
そんなパンを1個ではなく何百と。
さらにアレルギー対応のため、通常のバターロール生地だけでなく、乳なし、卵なし、乳も卵もなし、米粉と何種類もの生地を仕込む。
「『なかなかパンを食べなかった子が食べた』とか聞くとうれしくなりますね。
パンっていいものだな、いい仕事をしてるのかなって思います。
そういうのはお金に代えられないもの。
励みになります。
つづけることも大事。
よろこんでいただけるうちはがんばらなきゃ。
儲けだけのためにやってたら、辞めてたかもしれませんね」
かんかんかんかん。
今日も松陰神社前の踏切は鳴り、ニコラス精養堂は101年目も営業中である。
DATA
- 店名
- ニコラス精養堂
- 住所
- 〒154-0023 世田谷区若林3丁目19−4
- 電話番号
- 03-3410-7276
- 営業日時
- 8:00-18:00
- 定休日
- 日曜