パンはサーカス。

今日もパン屋というサーカスが立ち上がる。猛獣使いに火吹き男、玉乗りに、綱渡り…とまでアクロバティックではないけれど、あんぱん、デニッシュ、カレーパンにベーコンエピ、ピザパンにサンドイッチと、あらゆる手を使って、私たちを楽しませる、いわば味覚のスペクタクル。
パン屋って客を楽しませる舞台芸術に近い? って、演劇出身のパン屋さんに訊いてみたら、「そんなにちがうことをしてる感覚はないです」と答えが返ってきた。世田谷区にあるhnn(んんん)の島村吉人さんである。
梅ヶ丘の住宅地に見つけた木造の小さな物件に、古いカゴや木箱を置いて、そこに並べるのは、2kgででっかく焼くカンパーニュや、3日かけて熟成させた食パン、奥さんが炊いた虎屋仕込みのあんこを包んだあんクロワッサンなどなど。

パン屋と舞台が似ているところ。それは「集団でなにかを作り上げていく作業」だという。演劇は、役者さんや演出家が長いあいだ稽古を重ね、公演当日はお客さんを笑わせ、泣かせ、心を揺すぶって、小屋の中のみんなが一体になる。なにもないところになにかが生まれ、熱を帯びる。
パンも同じだ。製造の人も販売の人も力を合わせ、パンを並べれば、にぎやかさや楽しさが生まれ、匂いにも吸い寄せられ、お客さんがやってくる。
hnnを作り上げる「集団」。それは、島村さんと奥さん、そして誰のこと?
「発酵に興味があって、パン屋になる前も家でザワークラウトとからっきょうとか作ってました。演劇とパンの発酵ってすごく近い感じがある。発酵も多くの菌が、よいものにしていく。おいしくしたり、消化をよくしたり」
パンを作るのは人間だけではない。hnnのように自家培養発酵種を使う店ならなおのこと。酵母が息をしてパンをふくらませ、アルコールをだしておいしくして、乳酸菌は旨みや酸味を作り出す。見えないけど、彼らがいなければパンはできない。舞台裏にいて支えてくれる、大道具さん、小道具さん、音響さんのような存在だろうか。
「失敗したときでも、まわりの役者さんや、誰かしらが助けてくれる。ひとりじゃなくて、全体で作るものなんです」
島村さんは、劇作家や演出家をしていた。芝居の目指すところを役者に示し、稽古を客観的な位置から見て、アドバイスを送る。その目線が、パン職人が菌たちを見る目線に近い。

「大勢の役者さんを見て、こうした方がいいかなとか、ああした方がいいかなって考える、パン生地に触れているときと身体感覚は同じなんですよ」
ウケたりウケなかったり。すごくおいしいのができたり、少し焦がしたり。セリフのタイミングひとつ、手の動きひとつで出来が変わる。お客さんの体調や受け取り方によっても変わるだろう。1日として同じ芝居はなく、同じパンもない。
「パンも芝居もアナログっていうか、生身の体で舞台に出て、お客さんの反応を見ながら。そういう手触りがある仕事が好きですね。今日はできたなとか、できなかったなとか。正解がないのがいちばんやりがいがあると思います」

お客さんを楽しませ、笑顔にすること。サーカスなら、ブランコからブランコに飛び移ったり、猛獣に火の輪をくぐらせたり。はらはらどきどきさせ、笑わせて。パンで、お客さんを笑顔にするもの。それはおいしさだ。
世田谷の隣の狛江市にある、とにかくなんでも手作りするサンドイッチ屋さんCOUP DE COEUR(クードゥクー)。普通は、仕入れたパンで作るものだけれど、毎朝お店でのオーブン焼き上げる。調味料も、具材もすべて手作り。吉野晴子さんは、なんでも自家製じゃないと気が済まない。お客さんにおいしいものを食べてもらおうと思ったら、知らず知らずそうなっていた。
「当たり前の当たり前というか、なんかそのスタンスでやってきました」
コロッケサンドは注文が入ってから揚げる。ハムは塩漬けにして低温調理。マヨネーズもバジルソースも手作り。米粉のフォカッチャも焼きたてだからふかふかだ。
料理が大好き。メキシコサンドイッチのキッチンカーを手伝ったことがきっかけで、サンドイッチを届ける楽しさを知った。
2019年に夫の守敬さんともども、会社勤めを辞めて、住んでいた狛江で起業。

「当時、狛江には食べるところがあまりなかったんです」
まもなくコロナがやってきたが、テイクアウト業態のため、客足も途絶えることがなかった。家にいることを余儀なくされた時期、ランチに食べるサンドイッチが、乾いた心をうるおすものになったことは想像に難くない。
10歳と4歳、2人の女の子がいる。すべて手作りだけに、仕込みに時間がかかる上、子育ても大変な時期。一方が厨房に立てば、一方は子育てと協力しあう。それだけではない。10 歳の唯花さんも、妹の子守に活躍する。
「もう感謝しかないです。家族で店をやってるっていう感じです」
家族で営む。そんなあたたかさが、お店の空気にも、サンドイッチの味にもにじんでいる。それがコンビニで買うサンドイッチにはないCOUP DE COEURの魅力だ。
みんなで作り上げる。楽しい雰囲気が立ち上がる。お客さんを笑顔にする。そんな本質は、パンもサーカスも変わらない。hnnの島村さんの話に戻る。
「祝祭ってよくいいますけど、演劇も、なにもない場所に人が集まって、なにかを立ち上げる。みんなが去るとなんにもなくなっちゃう。でも、あの時間なにかあったなみたいな、記憶が残る。パンも残らない、消えるものだというところが好きなんですよね」

サーカスが去ったあとのさびしさ。パンを食べ終わったときのさびしさ。でも、あのとき楽しかったな、おいしかったなと思い起こすとき、パンは消えてしまっていても、思い出で胸のあたりがあったかくなる。そんなせつなくて、あたたかいパンに出会いたくて、またパン屋に出かける。
たった1個のパン、1軒の店でさえ、そんな気持ちになるのに……1年にたった 2 日だけ、たくさんのテントが建ち、 たくさんの店が勢揃いするのだから、時を忘れるほど興奮して、その分、祭りのあとのロスもせつなさも、思い出の忘れがたさもとびっきりなのが世田谷パン祭りだ。パンをめぐって、上を下への大騒ぎは、まるでサーカス。
そろそろ開演のベルが鳴る。前説は引っ込む時間。さあさあ、みなさまお立ち会い、世田パン大サーカスのはじまりはじまり!
hnn
世田谷区梅丘3-14-14
https://www.instagram.com/hnn_umegaoka
Open12:00-18:00 Closed日月
COUP DE COEUR
東京都狛江市東和泉1-13-3リーベ1階
https://www.instagram.com/coup.de.coeur_sandwich
Open9:00-sold out Closed日曜日・祝日
池田浩明(パンライター、パンラボ主宰、NPO法人新麦コレクション理事長)
著書『池田浩明責任編集 僕が一生付き合っていきたいパン屋さん。
』(マガジンハウスムック Hanako特別編集)、『パンのトリセツ』(誠文堂新光社)
など。ネット連載 朝日新聞デジタル&W『このパンがすごい!』 など。
・YouTube パンラボ チャンネル
・Twitter/Instagram @ikedahiloaki